夕方の光が差す古書店。制服に深緑のエプロンを着た鳴海が、古い木のカウンターに座っている。

店番日記スクロールで読む ↓

カウンターへ戻る ↑

望月鳴海の店番日記 · 横書き

注意だけが、出しっぱなし

本をめくって読む

教室の流しに、「水を出したままにしないでください」と貼られた。

蛇口は閉まっていた。注意だけが出ていた。

翌日、紙の周りに赤い線が増えた。水を止めない人は、黒い字では止まらなかったらしい。

その次は、字が大きくなった。流しを使うたび、ちゃんと閉めた人まで大きな声で叱られる。

注意書きは、読まない人には届かない。読む人には毎日届く。配達先を少し間違えている。

クラスの連絡にも、「提出期限を必ず守ってください」と来た。

私はもう出していた。出していない人が誰かは先生も分かっている。でも宛先は全員だった。

一人に言えば一人が嫌な顔をする。全員に言えば、三十人が少しずつ嫌な顔をする。薄く広げると公平に見える。

翌朝、先生は同じ内容を教室でも読んだ。

連絡を読んだ人は二回聞く。読まなかった人は、二回目だけで要点をもらえる。丁寧な人ほど再放送が多い。

「全員に再周知します」という言葉も便利だ。誰も名指しされない代わりに、全員が一度だけ犯人の席へ座る。

傘立てには、「取り違えにご注意ください」とある。

雨の日、みんな自分の傘を持ち上げて、柄や留め具を見る。間違えない人たちが、間違えないための確認を増やしている。

本当に違う傘を持っていく人が、その紙を読んで戻したのかは分からない。紙には報告欄がない。

図書室の返却台にも、「返却期限を守りましょう」と貼られている。期限内に返した人ほど、返すたびに期限を守れと言われる。

守らなかった人の手元には本があるので、返却台の注意は見えない。

かなり正確に、必要のない人へ届いている。

でも、読む側の仕事も増える。自分宛てではない叱り方を受け取り、念のため自分を点検し、また静かに守る。

放課後、流しの紙は端が少し浮いていた。赤い線だけはまだ元気だった。

蛇口から、水が細く落ちていた。

私は栓を閉めた。

貼り紙は何も変わらず、「水を出したままにしないでください」と言っている。

水は止まった。注意だけが、出しっぱなしだった。

この話の一冊

わかりやすさの罪

武田砂鉄 著
朝日文庫(朝日新聞出版)

「すぐにわかる」説明や二者択一を求める風潮を手がかりに、曖昧さや複雑さを削る「わかりやすさ」が社会に及ぼす影響を考える評論。要約、説明、共感など身近な場面から、与えられた選択肢そのものを問い直す。

鳴海のひと言

注意書きを増やせば問題まで整理されたように見えるけれど、分かりやすい言葉からこぼれた事情は、そのまま残る。この本は、早い納得や二択へ急ぐ前に、削られた部分を見直すための一冊。全員向けの注意を読んで、自分の話ではないのに少し反省してしまう人へ。

Amazonで見る(広告)

Amazonのアソシエイトとして、After 6 Laboは適格販売により収入を得ています。

鳴海の紹介と、本の詳しい情報を見る

次は、何を読もう。

日記をもう一篇読むか、今の好みで本を探すか。気が向いたほうへ。